未知の世界へ
踏み出し
アルカディアに出会う

イザベラ・バードとは

1878(明治11)年の7月、ひとりの英国女性が置賜地域を旅している。彼女の名前はイザベラ・バード(Isabella L.Bird)。イギリス、ヨークシャー州の牧師の長女として生まれ、英国国教会の高位聖職者を輩出している知識階級の家系の中で育った人物である。聖職者である父親は教会を移ることが多く一家は居住地を転々としていたが、多くの土地に移り住んだことで彼女は地理や歴史を自分の頭で考え、ものごとを観察する力を育てていった。美しい田園で乗馬に親しみ、宗教的空気の中で教育を受けた彼女は、11歳の頃に教会の日曜学校で教えていたという。

幼少期は健康に恵まれず、脊椎せきついの病気を患っていた。手術後の健康回復の手段として航海を医者に勧められ、23歳のときにアメリカとカナダを訪問。それが契機となり、40代になるとオーストラリア、ニュージーランド、ハワイ諸島など世界各地を訪ねては紀行文を出版する女性旅行者となった。当初は、宗教や貿易、統治政治についての内容が多かったが、次第に探検的要素が強くなり、キラウェア火山の登山や、ロッキー山脈の山越えにも挑んでいる。その後訪れた日本では、ガイドの若者、伊藤鶴吉ひとりを伴い内陸の奥地を通り北海道のアイヌ村を目指した。それは実質的に女性の一人旅と言えそうなもので、「ヴィクトリアン・レディ・トラべラー」と呼ばれる女性旅行家たちの中でも際立った存在である

ISABELLA L. BIRD BIOGRAPHY

1831

10月15日、イギリス北部ヨークシャー、バラブリッジで牧師の長女として誕生。

1854

カナダ、アメリカを旅行し、2年後に『The Englishwoman in America(英国女性から見たアメリカ)』出版。

1872

オーストラリア、ニュージーランドに向かい本格的に旅をはじめる。

1878

初来日し北日本を旅行。2年後に『Unbeaten Tracks in Japan(日本奥地紀行)』出版。

1891

王立地理学協会特別会員となる。

1904

10月、誕生日を目の前に72歳で病没。

近代化されていない
日本の「奥地」へ

訪日を決める前、バードは南米アンデスへの旅行を考えていた。しかし、相談した自然科学者のチャールズ・ダーウィンの後押しや、ハリー・スミス・パークス駐日英国大使の協力があり、日本行きを決定。旅の記録は日記に細かく書き留め、妹や友人への手紙として送り、帰国後に回収してまとめていくという手法をとっている。旅の2年後にイギリスで刊行された『Unbeaten Tracks in Japan』、1973年に高梨健吉(川西町出身)の翻訳で出版された『日本奥地紀行』には、文明開化から間もない日本の「奥地」で彼女が見た人々の姿、暮らし、自然の景観が、生き生きとした筆致で描かれている。

実り豊かに
微笑する大地

置賜地域に見た
美しい桃源郷

1878(明治11)年5月、横浜に降り立ったバードは、北関東、会津、新潟から山形に入り、秋田、青森、北海道に向かった。新潟県関川村から山形県小国町玉川に足を踏み入れたのは7月12日。約70㎞の越後米沢街道には13の峠があり、新潟側から鷹巣たかのすえのき大里おおり萱野かやの朴ノ木ほおのき高鼻たかばな貝淵かいぶち、黒沢、桜、才ノ頭さいのかみ、大久保、宇津、諏訪の「十三峠」と呼ばれた。標高は低いものの急峻きゅうしゅんで幅が狭く、鷹巣、榎峠について「よろけながら上り、滑りながら下りて」過ごしたとバードは記述している。大里おおり峠を越え黒沢で一泊しようと考えていたが、泊まれる宿がなかったことから、降雨と暗がりのなか市野々いちののまで進んでいる。黒沢峠は、ブナ林と苔むした敷石が頂上まで続く美しい峠だが、残念ながらバードの目には映らなかったようだ。市野々いちののでは「きのう旅した道のりは12時間かかって18マイル(約28.8キロ)!」と、旅路の過酷さを伝えているが、いちばんの難所と思われる宇津峠ではそのような記載はない。頂上から陽光を浴びながら見た置賜盆地の光景を「日本の花園のひとつ」と描写。連日の雨が上がり、峠を越えた晴れやかな心情が伝わるようである。

その後、バードは川西町小松で2泊し、15日に南陽市赤湯、上山市に到着。そこで改めて、置賜盆地を「実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカディア(桃源郷)である」と称賛するのである。今、私たちは彼女が見た光景を見ることはできない。だが、彼女の旅を通してこの地域の歴史や文化、自然環境を学ぶことはできる。そして地図を広げ、地図に載っていない道さえも歩き出す、たくましい生き方を見出すこともできるのではないだろうか。