編みなおされる 地域のつながり

なにごとにも「始まり」がある。生まれた時からそこに存在していて、わたしたちにとって当たり前に感じられるようなものにも、始まりがある。四方を山に囲まれ、深々と降りしきる雪国であるこの地に、今日も当たり前のように人々の生活が息づいているのは、勇気をもって「始めた」人がいたからであろう。近代化の足音とともに、全国各地どこも同じような景色になりつつあった中、それでも「らしさ」を今日に繋いでくれたのは、かつてこの地に生きた人たちの真っ直ぐな思いだろうか。
『栗子てふ山の岩根を一すじに 貫きてこそ道となりけり』
栗子隧道の開通を目にした三島通庸が詠んだ和歌に、先人への感謝が込み上げてくる。

不便を便利に。不条理を合理に。
世界が急速に変化し始めた時代、近代。

山形県の中央を流れる大河、最上川。中世以降の山形県、そして置賜地方はこの最上川を中心にして形作られていた。月山・朝日連峰・飯豊山・吾妻連峰・そして蔵王をはじめとする奥羽山脈。見渡す限り山に囲まれていたこの地に暮らした人々は、自然を畏れ、祈り、祀り、自然とともに生きようとしていた。
「不便」や「不条理」とともに生き、その中で「いまここ」から「らしさ」を紡ぎ続けていた中世以降、日本の風景が一変する出来事が起こる。明治維新である。不便を便利に。不条理を合理に。人間の“幸福”と“自由”を目指し、あらゆるものが急速に変化し始めた時代。そのうねりは、ここ置賜にも届いていた。

変化をもたらしたのは、反対を顧ぬ強引な手法をして『鬼県令』とあだ名された三島通庸みしまみちつねである。鹿児島県出身の三島は、新政府軍の一員として戊辰戦争に参加し、大久保利通によって才を見出され、明治7年酒田県令として山形に赴任し、明治9年に現在の山形県が設置されると、初代県令に任命された。
着任早々、三島は道路インフラを整備する決意を固め、中央政府にいた大久保へと上申する。大久保からは「あまり一時に大事業を行うのはどうか」と疑問が返ってきたが、三島の決意は固かった。仙台方面には蔵王の脇を貫く関山隧道せきやまずいどうを、福島方面には吾妻連峰を貫く栗子隧道くりこずいどうを、そして新潟方面には小国町を通る小国新道を整備した。

一体、三島の胸中にはどんな思いがあったのだろうか。「鬼」と呼ばれた彼の素顔に迫るべく、彼の土木工事の様子を描いた明治時代の画家・高橋由一たかはしゆいちの『三島県令道路改修記念画帳』を紐解いてみたい。
三島が当時の山形の様子を綴った文章がある。
「当山形県ノ如キハ特山星繞、群岳聳立シテ道路難儀、運搬利アラス、西方僅ニ浜スト雖、海北ノ余波ヲ受ケテ風涛高クシテ船舶便ナラス。」
山形県は、星をとりまくほどの高さの山々、数えきれないほどの山岳がそびえ立ち、交通の便が悪い。西に酒田の浜があり、最上川の舟運が盛んだったといえども、風が強く船舶に頼るのは便利とはいえない。

『各自ノ幸福ヲ将来ニ得セシメ』
100年後の幸せを想像して 編み直された道

この三島の課題意識、なんとしてでも陸路の道を通そうとした執念が現れている箇所がある。小国町を通る、小国新道の道中にある「片洞門」である。
『小国には、元々、江戸時代には越後街道と呼ばれる街道があったんです』そう語るのは、地元小国の郷土史研究をされている渡部眞治わたなべしんじさん。
『米沢藩で栽培された青苧がここを通り、新潟の小千谷地方に運ばれ、小千谷縮おぢやちぢみの原材料として供給されていた。最上川舟運とは異なる、藩にとっても重要な道の一つだったわけです。』
その言葉通り、江戸時代には「御役屋おやくや」と呼ばれる藩の支城が置かれ、街道沿いには峠を越えて荷物を運ぶ仕事を生業にする人たちの集落も点在していた。

そうした中世以降の風景を作っていた峠道は、人がやっと通れるほどの道幅で、三島の政策によって明治期に小国新道に置き換えられていくこととなる。
『片洞門にはね、小学校の頃に遠足で出かけました。新しいトンネルができるまでは、この狭い道をトラックが通っていたということも覚えています』
人が荷物を担いで峠を越えていた風景は、三島によって編み直された道によって馬や牛が断崖絶壁を歩む風景になり、その後近代化の象徴であるモータリゼーションによって荷物が運ばれる風景になった。それに伴って、消えていったかつての街道沿いの集落もある。
『きっと将来の幸せを願っていたんでしょうね。一般人には理解されにくかったでしょうけど、100年後の未来を考えると、道が必要だった。今を生きる私たちからすれば、この道がなかったらと思うと、ぞっとしますよね』
小国町が近代化の流れに取り残されることがなかったのは、小国新道があったからかもしれない。そこにある風景は、かつての風景とは異なるものの、今日も確かに人々の日常が紡がれている。
『各自ノ幸福ヲ将来ニ得セシメ』
100年後の人々の幸せを想像し、編み直された道は、今日ではかつての近代にこの地に生きた人の思いを伝える遺構となっている。

編み直された 「標準」の中に 確かに残る 地域の「らしさ」

道が編み直されたように、近代に入ってから、中世以降までの様々な風景が編み直された。明治以降、日本は国家としての輪郭をはっきりさせ、画一化と標準化の中で、国際的な競争力をたくましくしていく。この時代に標準化されたものの一つに「学校」がある。
明治5年に学制が発布され、中央集権的なフランスの教育制度を参考にした学校制度が日本全国に敷かれるようになり、明治9年には現在とほぼ同数の学校が設立されていった。
それまで地域によって様々だった「子供たちの学び」のかたちが全国で標準化され、同じ教科書、同じ指導法をする先生、同じような校舎、同じ時間割という形で、画一的な姿をし始めた。けれど、そうした「標準」の中にも、伏流水のように地域の「らしさ」が滲み出ている部分がある。

みなさんの小学校には「土俵」はあっただろうか。山形県内の小学校には「土俵」が設置されている学校が多くあり、置賜地域には現在も土俵が残っているところがある。
相撲とこの地域との関わりは、前号でも確認した通り、置賜地域の各地には草相撲や奉納相撲の文化が残されており、この地域に土着した一つの文化といえる。その証拠に、ここ置賜地域には、江戸時代から多くの力士名が刻まれた石碑が残されている。白鷹町にある荒車、長井市に残る小桜、南陽市には松風、飯豊町には藤縄など、それぞれの村で一番強いものが各力士名を襲名し、それが獅子舞と密接に絡み合っている地域もあった。
しかし、こうした土着の文化が、明治期に作られた「学校」という標準化の枠組みの中に、そのまま組み込まれたのかというと、どうやらそうでもないらしい。

『私が子どもの頃、昭和40年代には土俵がありました。休み時間には、土俵で相撲を取りましたね。当時は外遊びをたくさんしていましたからね。』子供時代を思い出しながら語ってくださったのは、白鷹町地域学校協働活動推進員の酒井宏幸さかいひろゆきさん。彼が通った白鷹町立蚕桑こぐわ小学校には、1942(昭和17)年に土俵が設置された記録が残っている。
当時の写真には、土俵に立派な幕が掛けられ、子供たちが総出で取り組みを見守る様子が残っている。
『特に、地域の方々やPTAの方々が熱意をもって取り組んでくださっているから、続くんでしょうね』
蚕桑小学校で行われている相撲大会は、一度は途絶えてしまったものの、昭和56年に、全戸からの寄付により用具一式を揃え相撲大会が復活し、現在まで学校の恒例行事として受け継がれている。

更新される「土着の文化」 置賜「らしさ」は どこへ向かうのか

各学年の横綱に贈呈される『梵天』ぼんてんと呼ばれる竹でできたトロフィーは、地域にある寺から切り出された竹を使って、地域の方や保護者、学校教職員とが協力して作り上げている。
相撲大会当日には、子どもたちの保護者だけではなく、地域のお年寄りも駆けつけ、地域総出で子どもたちの元気な姿を応援する。
長年地域の人たちによって続けられてきた行事を、現代に生きる子たちはどう捉えているのか。
『正直に言うと、相撲大会はそんなに好きじゃありませんでした』そう語るのは、蚕桑小学校出身で、小学校在学中に相撲大会に優勝し、「梵天」を獲得した渋谷晃生しぶやこうせいさん。
『低学年の頃は楽しかったと思います。自分たちで四股名を考えたり、身体を動かすのも好きだったし。でも、高学年になると、そこまで楽しみじゃなかった。人前に出て、目立つのが好きじゃないので』
蚕桑小学校の校是“気はやさしくて力もち”という言葉を、まさに体現するかのような感想を語ってくれた。

直近3年は、新型コロナウイルスの影響があり中止になっている蚕桑小学校の相撲大会、かつての『横綱』に、この学校らしさでもある相撲大会の将来について尋ねてみた。
『僕はそこまで楽しみじゃなかったんでね。でも、大人になったら、子供たちに相撲大会を楽しんでほしいと思って、盛り上げる側になるかもしれません。今の地域の大人たちのように。』はにかみながら語ってくれた彼は、今は熱心に柔道に打ち込んでいる。将来は、郷土の力士・白鷹山のように武道の道で活躍したい、と控えめに語ってくれた。
標準化と一画化を図り、国家としての枠組みを強くしていった近代という時代。日本における近代という時代の最後には、大きな戦争という区切りが待ち構えていた。そうした近代を省み、改めて前を向いて歩いていこうとした時、人々が思い出したのは、地域で脈々と継がれていたかつての「土着した文化」だったということだろうか。
そして、その「土着した文化」すらも、更新されようとしている現代。この置賜に脈々と継がれる「らしさ」とは一体何なのか、問いは深まるばかりである。
そんな風に考えながら、校庭でポツンと佇む土俵を眺めていると、古代から現代へと至る置賜に住んだ人々の思いを感じずにはいられない。

INFORMATION & MAP

吉田橋
〒999-2203 山形県南陽市大字小岩沢字静御前
南陽市指定文化財
片洞門
〒999-1321 山形県西置賜郡小国町大字綱木箱の口字子子見
(片洞門は、現在は廃道で立ち入り禁止である。)
白鷹町立蚕桑小学校
〒992-0772 山形県西置賜郡白鷹町横田尻3584−1
0238-85-2249