伝説の水神の舞 黒獅子くろじし

「置賜」という地域名が歴史に登場するのは、持統じとう天皇が統治していた時代の『日本書紀』における「優嗜曇郡うきたむこほり」という言葉である。自然の恵みを受け取りながら素朴な暮らしをしていた縄文時代は去り、「日本」という国が成立する歴史の中で、置賜にも域外から様々なものがもたらされた。白鷹町にある鮎貝八幡宮の舩山義彦宮司は、宮の縁起として中世東北で起きた出来事について語ってくれた。確かな記録は残っていないが、前九年の役で東北へと赴いていた源義家が、信仰していた戦の神様、応神おうじん天皇を祭る宮として建てられたという。もともと中央にいた貴族や武士が、中央の移民政策により移住してきた時代である。当時、何かの縁で置賜に辿り着いた人々の足跡は、今でもこの地に息づいている。

「この鮎貝という地には、藤原北家の流れを汲む貴族の方が京都から移り住んできました。“鮎貝”という地名を苗字にし、この地を治めることになるのですが、戦国時代に入ると様相が変わってきます」と語る舩山宮司。各地に点在する有力者たちが「戦国大名」と呼ばれるようになる時代になると、実力によって土地を治めるものが現れ始め、置賜地方には伊達家の武名が轟くようになった。地域を治めていた鮎貝氏は、5代目と6代目の当主が親子で意見が分かれたことをきっかけに家が分裂してしまう。伊達家に仕えた者、争いに敗れ最上家を頼った者。それぞれの道を歩むようになった歴史がある。
領地を巡って激しい争いが幾度となく繰り返され、力を持つ者が持たざる者を打ち倒していくような時代。しかし、この時代がわたしたちに伝えるものは戦いの歴史だけではない。その一つが今でも置賜地域の各所で伝承される文化「獅子舞」である。鮎貝八幡宮例大祭では、古くから「七進五退三転」という定型の足運びからその名称がつけられた「七五三獅子舞」が舞われている。

「獅子舞は元々、山で修業をする修験者たちが生業としていたお払いの儀式を原型としているのでしょう」。そう語るのは、獅子頭の彫り師で舞手でもあった渋谷正斗氏だ。獅子舞の舞い方には土地を清める意味合いが見て取れるという。そのルーツは反閇へんばいと呼ばれる中国の道教で行われる歩行呪術の一種だ。大陸から流入した文化である反閇へんばいは、獅子舞だけでなく、相撲の四股しこや歌舞伎の六方ろっぽうなど、あらゆる文化芸能の「歩み方」の根底に流れる伏流水のようなものである。

 長井市にある總宮神社の獅子頭は黒を基調とする外見で、「おしっさま」と親しみを込めて呼ばれている。黒い獅子頭は、修験者たちが権現様に通じる黒色を特別していたことに由来すると考えられている。限られた一部の人たちのものだった舞いが、時代の流れの中で地域の人々に伝えられ、誰もが心待ちにする祭りになった。当時の様子に思いをはせながら、ぎろりとこちらを覗き込む獅子の姿をじっくり観察してみると、そのルーツが明らかになってくる。

どことなく平べったく面長で、龍のような姿をしている總宮神社の獅子は、「お水神様」とも呼ばれる。「水」は自然の恵みでありながら、時に豪雨で生命を脅かすものである。それゆえ中世の人々は、水や水をもたらす山を畏れ、信仰の対象とした。地域の水神信仰と外からもたらされた獅子舞が結びついた結果、「お水神様」と呼ばれる漆黒の獅子舞が紡がれたのではないだろうか。一方、獅子舞が草相撲と融合し、獅子を御す警固役が「角力すもう」と呼ばれ、若い男たちにとって憧れの存在となっている地域もある。土着した獅子舞は、人々の信じていたものによって、千変万化、独自の進化を遂げているのだ。

「こうやって突き詰めていくと、オリジナリティというか、“らしさ”ってなんだろうっていう感じがしてくるよね」と、渋谷氏はおもしろそうに笑った。「東洋のアルカディア」と呼ばれたこの地域の「らしさ」とは何か。脈々と紡がれている伝統文化や、神事はその最たるものとして挙げられることが多いが、その実は外部からもたらされたものであり、土地流に改造されてきた中世の歴史が垣間見える。当時の人たちに習うなら、「らしさ」は再発見するものでも探そうとするものでもなく、「いまここ」にある生活から自然と滲み出るものなのかもしれない。

INFORMATION & MAP

鮎貝八幡宮
〒992-0771 山形県西置賜郡白鷹町鮎貝3303-1
TEL:0238-85-5510
社格等:旧県社 別表神社
御祭神:応神天皇 倉稲魂命うかのみたまのみこと
山形県指定文化財(本殿)、白鷹町指定無形文化財(七五三獅子舞)
工芸社 獅子宿
 
〒993-0021 山形県長井市上伊佐沢2900
TEL:0238-84-1143
受付時間 11:00〜14:00(獅子宿 燻亭)
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