原始は種、一番は土。

置賜の伝統野菜

最上川は福島県と境をなす吾妻山付近を水源に、置賜、山形、新庄の三盆地を北に流れ、庄内平野を横断して酒田から日本海に注いでいる。今から約6500万年前までの新生代と呼ばれる時代に、各盆地と庄内平野は湖沼か海だった時期があり、その後の地殻変動で湖沼の水が捌け口を求めて流れ始めた。隆起した山々から水が注ぎ込むにつれて、湖沼の間を流れていた小さな水路が拡大し、約100万年前の氷河期に一本の川となったと考えられている。

流域面積7040平方キロメートルは山形県全体の76%にあたる。山形の背骨のような本川に流れこむ支川は大小合わせて428。その流域に約100万人が暮らし、経済や文化を発展させてきた。最上川という名前が文献に登場するのは平安時代、905(延喜5)年に出た『古今和歌集』が最初である。「最上川 のぼれば下る稲舟の いなにはあらず この月ばかり」(20巻、東歌)という歌から、稲を積んだ舟が往来していたことがわかる。また、927(延長5)年に公布された延喜式には最上地方の水駅が記載されていて、最上川舟運は中世には部分的に確立していたとみられる。

アルカディアの地で紡がれる 種と人の物語。

種を守り、継ぐ人

白鷹町広野地区で60年以上、農家を営んでいる新野にいの惣司そうじさんは「畔藤くろふじきゅうり」の栽培者である。現在流通している種とは違い、黒イボ種で皮が厚く肉質が柔らかいのが特徴。色は淡い緑色で、約30〜35センチの長さがある。小さくて収量性の高い白イボ種が流行すると、畔藤きゅうりの栽培面積は減少し、昭和40年台に入ると市場から姿を消した。自家採種で栽培を続けていた新野さんはビニールハウスでの栽培や生産組合結成などに尽力したが、経済性を追う流れが大きくなり一度「畔藤きゅうり」の生産から離れた。

それから12年ほど経ったとき、高齢で栽培ができなくなったという農家から種を受け取った。再び手にした種。しかし成ったきゅうりは新野さんの記憶にある「姿のいいきゅうり」ではなくなっていたという。10年ほどかけて原始の姿に戻すため研究と模索を重ね、すらりとした姿で食味がいい「畔藤きゅうり」は蘇った。それからまた月日が経ち、現在、広野地区で栽培しているのは新野さんのみとなった。種の継承者が切望される。

畔藤きゅうりの栽培者、新野惣司さん。一度手放した種を、なぜまた他の人にはない熱量を持って育てているのかを問うと「病気でしょ。こだわりの強い病気」と笑った。畔藤きゅうりを食べたら他のきゅうりは食べられない、と、現在は畔藤きゅうりのみを作っている。後継者不在で種を継ぐ人が求められている。

長井市時庭ときにわ地区で「馬のかみしめ」を栽培している遠藤えんどう 孝志たかしさんは、県外で郵便局員を経て代々続く農家を継いだ。安定した生活から、自然を相手に耕し植え収穫する農家へ。その決意の根幹には、楽しそうに面白そうに農業を行う父、孝太郎さんの姿があったという。孝太郎さんは、幻の米とも呼ばれる希少品種「さわのはな」の種子栽培に取り組む「さわのはな倶楽部」の中心人物。失われそうな種を守り、おいしい作物を作って広めようと力を注ぐ父の背中、考え方に影響を受けた。

郵便局員として働くかたわら繁忙期には帰郷し作業を手伝っていたが、責任を持たないまま手がける農作業で得られる経験の乏しさに疑問を持った。「農作物は基本的に1年を通して1回しか作れない。生きているうちにあと何回できるだろう」そう考えたとき、遠藤さんは居ても立ってもいられず就農を決めたという。

「馬のかみしめ」は、もともと別の農家が作り続けていて、作付けが困難になり相談を受けたことから遠藤家に種がもたらされた。周囲の人に、どういう豆なのかを聞くと「すごくうまい豆だ」という声が返ってきた。昔は置賜地域全般で多く作られていたというが、栽培方法など記録は残されていない。試行錯誤をしながら栽培を始めた「馬のかみしめ」は、驚くほど豆の香りが立ち上がる、他にはない味の濃い豆だった。

「機械選別に向かず推奨品種から外れたりすると、農作物は一気に切り替わってしまう。決まった品種だけを作る画一的な農業の流れの中で、そうじゃない人がいてもいいと思うんです。自分が食べてうまいと思うものを、ぜひみんなに食べてもらいたい」という遠藤孝志さん。伝統野菜を使った商品開発にも精力的だ。

南陽市和田地区で14代にわたり農家をしている土屋つちや きよしさんは、「おかひじき」の専家である。「おかひじき」はもともと日本に自生していた野菜で、最上川舟運により庄内から伝えられたと考えられている。シャキシャキとした食感でクセがなくミネラルが豊富な特徴があり、伝統野菜としては珍しく、スーパーで見かけることも多い。そんな「おかひじき」も病害が数年続いた時期があり、30人以上いた栽培者が5名程まで減ったことがあった。土屋さんは、そのときに残った一人だ。

なぜ続けたのか、なぜ「おかひじき」だったのか。「仕方なくだよ」と照れたように笑う土屋さんの手は、優しく種をなで続けていた。「これ(種)は貴重だと思っている。伝統野菜は〝種〟だもんね。原点がこれだから」。紡いだ言葉には、子どもの頃から父と農作業に勤しみ、祖父から種を受け継いだ人の、想いが込められていた。

「JA 山形おきたま南陽おかひじき部会」の部会長も務めた土屋清さん。子どもの頃から身近に農業があり、自然な流れで就農。おかひじきの栽培に適した産地を守る気持ちから自家採種した種を大事に守っている。「やっぱり南陽のおかひじきじゃないと」という購入者の喜びの声が、栽培の意欲につながっている。

生きる喜びの種を蒔く

飯豊町中津川地区宇津沢うつざわ集落に伝わる「宇津沢うつざわざわかぼちゃ」は、屋号の「八郎家はちろうけ」で100年以上前から受け継がれた「八郎かぼちゃ」に由来する。橙色の皮と山吹色の果肉、甘くほくほくとした食感が特徴だ。作付け面積は少ないものの、そのおいしさが評判となり宇津沢地区全体へと広がった。中津川地区のほとんどの家には畑があり、おいしいと思った作物の種を取り、植える暮らし方がこの伝統野菜を作ったと言える。「飯豊町にある伝統野菜は宇津沢かぼちゃだけ。みんながおいしいと食べてくれるから、少しでも長く作り守っていきたい」と、栽培者の一人である渡部わたなべ 順子じゅんこさんは語った。

「宇津沢かぼちゃ」の品質の維持と普及に努める「宇津沢かぼちゃの里」は、女性が中心となっている。苗の手入れがしやすいポット栽培が多い中、「八郎家」の山口泰たい子こさんは直播きを続けている。栽培法のほか、郷土料理や中津川の暮らしについて伺うと「私らは自然と共に生きてるから」という言葉が自然と聞かれた。

飯豊町中津川地区はワラビの産地で、春から初夏にかけて山に自生するワラビを採り、塩漬けにする。生姜とニンジンの千切り、シソの実を醤油と鰹だし、みりんで和える醤油漬けはさっぱりとしていて、シャキシャキとした瑞々しい食感が残る。5月中旬から7月初旬頃になると、産直などで新鮮なワラビを入手できる。

小国町の「そうざい清水」では、地域の野菜が味わえる郷土料理を提供している。店内には春に山から採ってきたワラビ、ウド、フキ、夏に採れるトビタケなどの塩漬けを使った料理が大皿いっぱいに並ぶ。小国町で50年以上、郷土料理を作り続けている鈴木すずき 慶子けいこさんが手間ひまかけて作った料理は、昼過ぎになると残り少なくなるほど地域の人に愛されている。「この土地で採れたものをおいしく食べられるように工夫するのが昔から好きなんです。喜んで食べてくれるのが一番嬉しい」と、さまざまな料理の作り方や小国町の風土まで教えてくれた。

小国町の「そうざい清水」を営む鈴木慶子さん。料理が好きで50年以上前から独学で料理を研究し、総菜を作り販売してきた。地域の食材を使う郷土料理の中でも、塩ますや大根、ニンジン、トビタケを米麹に漬け込んだ「すし」は人気。12月になると大きな樽に仕込むが、常連客のリピートが多く、春までに3度仕込むことも。「買って植えるのが当たり前の時代だけど、種を採ってまた次につなげていくことをしてるからこそ、見えてくるものもある」。伝統野菜と呼ばれるものもそうでないものも、今ここにこの形で残っているという面白さがあり、全ての種に託された思いがある。今、あなたが受け取り、次の人に渡したいものはなんだろうか。

種を受け継ぎ次の世代に伝えることは、ごく自然な人の営みでありながら、ときに困難だ。それでも人々を突き動かしてきたものは何か。託された人、育んだ土、大地が差し出す恵みに喜びを感じた記憶。それらが深い愛情でつながり、一歩、また一歩と種をつないできたのではないだろうか。手のひらに種を取ると、互いが馴染むように 生気を宿す。種子という物質を保存し情報を共有していく以上の結びつきが、アルカディア地域にはある。