桜の名所が多い置賜地方には樹齢1,200 年ともいわれる巨樹があり、古くからこの地で人々に春の訪れを知らせてきた。その起源とされる伝説に登場するのは、日本初の征夷大将軍、坂上田村麻呂。美しい桜のはじまりには、英雄の存在と悲恋の物語があった。
稀代の英雄、
置賜に桜を植える
坂上田村麻呂は、平安時代初期の公卿で4代の天皇に仕え、忠臣として名高い。また、武芸に優れ寛容で器量よし。「行動は機敏で、立ち振舞いは理にかなう。怒れば猛獣もたちまち倒れ、笑えば幼児もなつく」ともいわれ、征討に行く先々で田村麻呂を慕い従うものが多く、ついてくるすべての人に馬を支給できないほどだったという。京都の清水寺を建立したことは知られているが、それ以外にも田村麻呂が由来になっている寺社や、田村麻呂を祀る神社は全国にある。それだけ絶大な人気をもつ、英雄のような存在だったと思われる。
日本で最初の征夷大将軍に任ぜられたのは、797(延暦16)年。その前後、二度にわたり奥州平定のために遠征をしている。田村麻呂が置賜に植えたとされる桜は5本。伊佐沢の久保ザクラ、白鷹町高玉の薬師ザクラ、草岡の大明神ザクラの3本が現存し、白鷹町深山と長井市勧進代にあった桜は枯れて失われてしまった。
お玉の悲恋
「伊佐沢の久保ザクラ」
田村麻呂は、この地を訪れた折に豪族である久保家の家に宿泊し娘のお玉と結ばれたが、奥州の征討が済むと軍を収めて帰京してしまった。お玉は恋慕の情に耐えきれず、病にかかり、亡くなってしまう。再び東北に来た田村麻呂がそれを知り、哀情から摂津国摩耶山の桜を取り寄せ、お玉の墓に手植えして墓標にしたという。起源については、桜の苗を送ったという説や、地元の豪族が妻(お玉)と子の死を悼み手植えしたものという説もある。いずれも「お玉」という女性が登場することから「お玉桜」の名でも親しまれている。
幻想的で儚い、
恋と戦いの物語
「薬師ザクラ」
白鷹町高玉にある薬師堂と桜については、伊佐沢の伝説の後日譚のように語られている。お玉の死により悲嘆に暮れていた田村麻呂は、沼のほとりで作った笛に想いを託し夜中に吹いていた。その音色に誘われたかのように一人の女性が姿を現し、笛を吹いている間は静かに佇むようになった。次第に田村麻呂の傷ついた心は癒され、心惹かれ合った二人は結ばれる。
沼のほとりには女性の家があり、その近くに産所を建て子どもを産みたいという女性。「満月に産み、半月になる頃には将軍のもとへ戻るので、産所には誰も近づけないように」と言われていたが、待ちきれず産所に向かってしまう田村麻呂。そこで見たのは、大きな白蛇がトグロを巻き、黄金色の懐剣を抱いて眠る姿だった。母と子が大蛇の餌食になったのかと憤怒した田村麻呂だったが、女性との出会いからこれまでの不可解なことを思い起こし、そのまま暗い気持ちで家に帰る。数日後、田村麻呂を訪ねた女性は、自分が沼の主であることを告げると、武勇を宿して産み落としたという一振りの黄金の剣を残して消えてしまった。
ある夜、夢枕に女性が立ち、三日後に別の沼の大蛇の一族が自分の住む沼を襲いにくるので倒してほしい、と泣きながら哀願した。願いを聞き黄金の剣で大蛇の首領を退治したが、里の長老が大蛇の祟りを恐れた。田村麻呂もその死を哀れんで塚に一本の桜を手植えし、そばに御堂を建立。黄金の剣を納め、祭祀を修したのが由来だとされている。
伊達政宗との縁
「草岡の大明神ザクラ」
起源については、田村麻呂が奥州を平定した際に記念として植えられたとだけ伝えられている。1580年代に伊達政宗が鮎貝攻略の初陣で敗北し、人がひとり入れるだけの洞があった桜の木に身を隠し生き延びたという口伝がある。政宗は「桜子の 散り来る方を 頼み草 岡にて又も 花を咲かせん」と詠み、家臣の横山勘解油を遣わせ、手厚く保護にあたらせたという。現在もその子孫が住む敷地に桜がある。
エドヒガンザクラは幹が堅く、腐りにくいため桜のなかでは最も長寿だ。しかし昨年の大雪の重みに耐えきれず、太い幹が折れてしまったものもある。それでも、年を重ね懸命に生きる姿は尊く、私たちは古木に芽吹く淡い蕾に、待ち遠しかった春の訪れを感じとるだろう。どんなときも春になれば花を咲かせ、伝説になるほど長く人と共に長い歴史を紡いできた桜。その存在は、私たちの心の拠り所となっている。