歴史と文化 生命を育む 悠久の最上川
最上川の誕生
最上川は福島県と境をなす吾妻山付近を水源に、置賜、山形、新庄の三盆地を北に流れ、庄内平野を横断して酒田から日本海に注いでいる。今から約6500万年前までの新生代と呼ばれる時代に、各盆地と庄内平野は湖沼か海だった時期があり、その後の地殻変動で湖沼の水が捌け口を求めて流れ始めた。隆起した山々から水が注ぎ込むにつれて、湖沼の間を流れていた小さな水路が拡大し、約100万年前の氷河期に一本の川となったと考えられている。
流域面積7040平方キロメートルは山形県全体の76%にあたる。山形の背骨のような本川に流れこむ支川は大小合わせて428。その流域に約100万人が暮らし、経済や文化を発展させてきた。最上川という名前が文献に登場するのは平安時代、905(延喜5)年に出た『古今和歌集』が最初である。「最上川 のぼれば下る稲舟の いなにはあらず この月ばかり」(20巻、東歌)という歌から、稲を積んだ舟が往来していたことがわかる。また、927(延長5)年に公布された延喜式には最上地方の水駅が記載されていて、最上川舟運は中世には部分的に確立していたとみられる。
最上川舟運のはじまり
上流から下流まで、一貫して舟運が行われるようになったのは江戸時代である。幕府の海運航路の開発を受け、山形城主最上義光は〝三難所〟と言われる村山市の碁点、三ヶ瀬、隼を開削させ、舟運発展のきっかけをつくった。幕府の御用商人、河村瑞賢が酒田を起点とした西廻り航路を確立したのは1672(寛文12)年。以降、酒田から大阪、江戸へとつながる海運は発展を続けていった
一方、海から程遠い上流部にある米沢藩は、川底が浅いため舟を浮かべることができず海運航路を活用できずにいた。そこで着目したのが白川が合流し水量豊かな藩領長井である。しかし長井から北にある白鷹町荒砥と地区周辺の五百川峡谷もまた難所であり、大きな岩が乱立し急流が諸所に発生していた。これを解決して江戸や京、大阪と交易し利益を生もうと、米沢藩の御用商人、西村久左衛門が普請を願い出て黒滝開削を開始。難工事の末、1694(元禄7)年に全流程が開いた。
最上川舟運
上流で栄えた山の港町
川の港、長井の華やぎ
遠く江戸・大阪まで通る路が一筋の川によって結ばれ、舟の往来が始まると、米沢藩は長井に陣屋(藩出張所)を設け舟着場と特産品を保管する倉庫をつくった。さらに上流の高畠町糠野目にも舟着場を設置したが増水期以外は舟がのぼれなかったため、長井の「宮舟場」が最上川舟運の起点となった。すると問屋や商店が続々と集まり、産物を積んだ荷車が宮と米沢を行き来するにぎわいをみせた。次いで2キロほど上流に民間の「小出舟場」がつくられ、米沢藩の表玄関として長井は大いに栄えた。
伝えられたもの
最上川をのぼって運ばれてきたのは、塩・古手物・干魚・木綿、茶などである。近世初期にはキリスト教宣教師も最上川の川舟を使って山形や米沢に至っていて、荒砥付近で発見された十字架はこの伝播ルートに連なる遺物と考えられている。最上川舟運は、物資だけではなくさまざまな文化の流入をもたらし人々の暮らしを豊かに潤した。
酒田へ積み出されたのは米・大小豆・紅花・青苧が多く、長井からは絹糸・蝋・漆などが移出された。中でも紅花は江戸後期の諸国名産番付で阿波の藍玉と相対して関脇に位置するほど高く評価され、米沢藩の青苧は上質で奈良晒や越後の縮織などに使われるなど人気が高かった。これらの特産品を置賜の地にもたらしたのは米沢藩主上杉景勝公の側近、直江兼続であり、およそ200年の後にそれを受け継ぎ、藩財政を立て直す施策として栽培を奨励したのが9代藩主上杉鷹山公であった。
明治期になると奥羽本線が開通し、交通基盤として舟運の機能は失われた。紅花や青苧も換金作物としてもてはやされる時代は過ぎたが、伝統ある作物を今も大切に育て、未来につなぐ人がいる。舟運によりできたまちの形がある。最上川の歴史を辿れば、この地域に生きてきた人々が紡いできた営みと文化が見える。