思いやりと感謝 ご恩返しの精神を語り継ぐ

「鶴の恩返し」発祥の地。

南陽市漆山にある鶴布山珍蔵寺かくふざんちんぞうじは、仙台伊達家と縁の深い曹洞宗金剛山輪王寺・極堂宗三和尚きょくどうそうざんおしょうによって、1460(寛正元)年に開山されたと伝わる古刹こさつである。上杉家代々の領主が訪れ厚遇した寺でもあり、米沢藩の地理や城郭、神社仏閣、旧跡などの縁起や概略を記録した『鶴城地名選かくじょうちめいせん』(小幡忠明、1804年)には、昔話「鶴の恩返し」とよく似た話が開山縁起として残されている。

昔話と大きく異なるのは、主人公の金蔵が鶴の機織り姿を目にしていないこと。妻となった女性が織物を残して消えたことで金蔵が出家したこと。鶴の毛織物が大変珍しいものとして寺の宝物になったこと。金蔵の名前から金蔵寺と名付けられた寺が、いつしか「珍蔵寺」と呼ばれるようになったことなどが記されている点だ。副住職によると、宝物の織物は現存していないという。現在の本堂は1807(文化4)年に再建されたものであり、それ以前の火災で消失してしまった可能性がある。開山縁起に記されている通り、この場所にはもともと小さなお堂があり、それを開いたのが極堂宗三和尚なのではないか、という話である。「鶴の恩返し」のような話は、青森や新潟、岡山や鹿児島など全国に点在しているが、珍蔵寺の開山縁起の伝承が最も古い記述とされている。

地域に紐付いた物語。

南陽市が「鶴の恩返し」発祥の地と考えられている理由の一つに、鶴巻田つるまきた織機川おりはたがわ羽付はねつきなど、鶴にまつわる地名が珍蔵寺周辺に残っていることが挙げられる。また、かつてこの地は一面が湿地帯で鶴が飛来していたという言い伝えがあり、上杉家の御年譜に「1625(寛永2)年10月に鶴を一双、幕府に献上した」という記実がある。子ども向けの視聴覚教材『鶴の恩返し』を制作し、昭和59年度全国自作視聴覚教材コンクールで文部大臣賞を受賞した加藤正人氏は、「発祥の地が南陽市であることを意外にも市民の方があまり知らないので、少しでも広く見ていただけたらと思い制作しました。今見ても作品に込められた願いや想いは古い気がしません。思いやりと感謝、素晴らしいご恩返しの心は、今も昔も変わらないものです。後世に語り継いでいきたいですね」と語る。

作品は物語の謎解きを中核にしつつ、南陽市の風景、自然と調和する珍蔵寺、那須野浩氏による美しい挿絵で構成されている。そして、あたたかく柔らかな佐藤七衛門氏の語りが、心に染み入るように情景を紡ぎ出していく。
語りの冒頭を紹介したい。

むがすあったけずまなぁ。織機川おりはたがわのほとりここ新山にいやまに金蔵ていう正直で働きものいたけずま。

いづだったか隣の宮内さいった帰り道、別所前あたりのたんぼ道で、そこらの腕白わんぱくやろこめら大きな鶴一羽足縄でしばっていづめったけずま。

金蔵ぁもごせがって、あり金はだいて助けてけっちゃずま。鶴ぁありがどうなんべんも頭さげて、金蔵の頭のうえっか大きく回って鶴巻田のほうさ飛んでいったずま。

あふれる情感を、土地の言葉で語り継ぐ。

昔話とは一般的に「昔むかし、あるところに……」というように、時代や場所、人物を不特定に語る架空の話であるが、南陽市で語り継がれている「鶴の恩返し」には具体的な地名が出てくる。『鶴城地名選』に出てくる地名は「漆山」「宮内」だけであることを考えると、民間で口頭伝承されるうちに現実の要素が加えられていったと考えられる。南陽市は米沢藩以来の養蚕地帯であり、明治時代には製糸業が地場産業となり海外貿易で栄えた歴史がある。鶴が飛来する環境で、江戸時代に絹糸を紡ぐ暮らしをしていた人々は、今よりずっと身近な調子で子どもに語り聞かせていたのではないだろうか。

文化施設「夕鶴の里」には、製紙工場の敷地内で使用されていた〝まゆ蔵〟を利用してつくられた「夕鶴の里資料館」があり、戯曲『夕鶴』の資料や、養蚕、繰り糸、織り、信仰、近代製糸に関する展示がされている。そして「語り部の館」では、地域に口伝えで残されてきた民話を土地の言葉で伝えるために、語り部たちが今も民話を語り継いでいる。

INFORMATION & MAP

夕鶴の里
〒992-0474 山形県南陽市漆山2025-2
TEL:0238-47-5800
開館時間/9:00~16:30
定休日/月曜(祝日は開館)
https://nanyo-bunka.jp/yuduru/ind

珍蔵寺
〒992-0474 山形県南陽市漆山1747-1
TEL:0238-47-2264