自然と生きる 山の民 その伝統文化
小国町に伝わるマタギ文化
小国町は、町の北側に朝日連峰、南西部に飯豊連峰という、雄大な山々に抱かれた町である。面積の9割は森林で、そのうち8割は原始景観を残すブナの森が覆っている。ゆっくりと成長し、大きく枝葉を伸ばす天然広葉樹林は美しく、白いブナの幹と豪雪地帯である雪のイメージから、小国の森は「白い森」と呼ばれている。長い歴史の中、自然の中で生きてきた人々の間には狩猟や採集を生業とするマタギ文化があり、朝日連峰南麓にある五味沢と金目、飯豊連峰北麓に位置する小玉川地区には、今もその伝統が残っている。
小国町マタギの起源は定かではないが、小玉川地区で11代続くマタギの家系である本間義人さんの家には、米沢藩の時代に鉄砲による狩猟許可が降りた、ということが伝わっている。長ければ400年以上前からマタギは存在していたと思われる。そして、東北地区を広く活動の場にしていた秋田県仙北地方阿仁地区の「阿仁マタギ」がこの地を訪れ、発達した狩猟技術を伝授したという。マタギの家系、または集落の長には秘伝の巻物が代々伝えられており、その伝承の有無がマタギの正統性を示すものだと考えられている。
狩猟法とマタギ言葉
縄文時代から弥生時代にかけて農耕が始まると、平地地域では原始的な狩猟生活はなくなったが、山地地域は自然の恵みが豊かなため、狩猟と採集による生活の仕方が残った。小国町の山地地域でも、人は里に住み農業をしながら農閑期である冬季と春先に狩猟を行うようになっている。狩るのはツキノワグマ、猟法は主に集団で行う巻狩。全体を見て指揮する「ムカダテ」、クマを追い立てる「セコ」、鉄砲で撃つ「ブッパ」などの役割があり、10人前後で行うことが多い。しかし地域のマタギが減少し、他に仕事をしている人が多い現在は、5人ほどの少人数で行くこともある。
マタギには山でだけ使うマタギ言葉があり、血を「マカ・アカ」、仕留めたときには「サキノッタ」、解体するときには「サナデル」、山で離れた場所にいる人がおおよそ同じ高度にいるときは「タイゴウ」などと表現する。地域により表現も由来も異なるが、里ではマタギ言葉を使わない、ということは共通している。これは山神が里の穢れを嫌うため、山に里の言葉を持ち込まないようにするためと言われる。
山神は女性神だとされ、マタギは山に入る1週間ほど前から女性との関わりを断ち、山に入れば女性の話も名前すら口に出さない。昔はおむすびすら自分で握る人もいるほど厳格だったが、現在は女性の入山規制はない。禁忌とされるのは、口笛や歌など気を散らす行為である。マタギが行くのは綺麗に整備された登山道ではなく、滑落すれば命を落とす危険性がある山道で斜度33度の急斜面を登っていくこともある。山という神域に足を踏み入れるとき、マタギは自然への畏敬の念を表し、山神が宿るとされる三叉の木に手を合わせ、安全と豊猟を願う
すべては山神様からの授かりもの
宗教的儀礼と分け前
仕留めた熊は、皮を剥ぎ、解体する。尻尾だけを残して剥いた毛皮を持ち「センビキトモビキ」と唱えながら肉体の上で上下させる(金目)、剥いた毛皮を肉体に着せる(北部)、皮を剥いて肉体を別の場所に移すときに皮でお尻を2度もしくは3度叩く(小玉川)。その他、獲った場所の上流に向けて、頭と心臓をお供えし、山神様にいただいたものの報告をする。心臓を十字(小玉川)、十二(金目)と切る、という儀式がある。昔からの教えに従い、これらの儀式を行う点がマタギと狩猟者の明確な違いでもある。狩猟者の中には、欲しい肉だけを取り他の部位を捨てていく人もいるという。マタギは、腸の中身以外のもの全てを持ち帰り、食料、衣料、薬に使う。そして、年齢や役割に関係なく、関わったすべての人に等しく分ける。狩りに参加できなかった人がきても、荷物持ちだけでも、取材同行者であったとしても、同じ量の分け前が与えられるのだ。
自然の恵みに依存し、ときに対峙し、共に生きてきた彼らにとって、これらは当たり前に共有している世界だ。熊だけでなく山菜もキノコも「山神様から授けていただく」という考え方が、ゆるがない精神的支柱になっている。