山川草木 自然と人間の共生

生命に感謝する心と共同体の存在

草木塔は、採取した草木の命に感謝し、供養する気持ちから建立された石塔だ。「草木塔」「草木供養塔」「草木国土悉皆成仏そうもくこくどしっかいじょうぶつ」などの碑文ひぶんのほか、経文きょうもん梵字ぼんじが刻まれたものもある。大きさは50~80センチメートルほどで、自然石が多い。日本国内で確認されているのは170基以上。そのうちの9割が山形県内にあり、置賜地域に集中している。最も古いものは、1780(安永9)年に建立され、米沢市田沢地区塩地平しおじだいらに現存している。江戸大火により米沢藩の江戸屋敷が焼失した際、再建のため山林の木々が大量に伐採されたことに由来するという。以降、林業の盛んな地域、特に「木流し」の拠点に沿って分布している。

「木流し」とは、江戸時代から昭和初期まで続いていた木材の搬出方法で、山奥で伐採した木を雪面を滑らせて川辺まで運び、春の雪解けで増水した川の流れを利用し下流まで運ぶ作業である。

一木一草に神性をみる草木塔

日本の国土の7割近くを覆う森林。古来より山岳や樹木は、人々の信仰の対象として存在していた。置賜地域は内陸地の山間部にあり、南に吾妻・飯豊山地、北に朝日岳、白鷹山と、雄大な山々と人は常に共にあった。山から流れる川や、森林地帯での狩猟採集、鉱山から得られる恵みが人々の暮らしを長く支えてきたのである。それと同時に、厳しい自然環境や険しい地形は、ときに命を脅かし、畏敬の念を抱くとともに恐れの対象でもあった。そこで人々は、巨石や巨樹に注し連め縄なわを張って神格性を持たせ、祀ることで安泰を願った。

天と地を結ぶように高く伸びる樹木は神々の依代よりしろであり、精霊、祖霊のすみかであり、人間の生命よりも遥かに長い時間を生きる、神聖なもの。そういった山岳信仰、樹木崇拝、アニミズムが身近に感じられる土壌が置賜地域にはあり、この土地に多く存在する「草木塔そうもくとう」にもその精神性をみることができる。

流送、陸揚げの過程では川に飛び込むこともあり、草木塔には過酷な山仕事の安全祈願も込められていた。江戸期に建立された草木塔34基の建立者をみてみると、村中または地名が記されているものが8基、講中3基、個人名3基、導師名2基、町方1基、記載なしが17基である。村中、講中など集落単位で草木塔信仰があったことは、当時の生活単位が大きく、山仕事をする共同体としての団結が強かったことがうかがえる。

草木塔に込めた感謝と願いと畏敬の念

人の暮らしと自然との共生を考える

白鷹町深山地区にある材木供養塔(1810、文化7年)、財木供養塔(1866、慶応2年)は、草木塔の数には数えられていない。しかし、人のための資材とする樹木に感謝と成育を願い供養する心は、草木塔と共通のものである。財木供養塔を建てた樋口金右エ門は木挽こびき、材木供養塔の願主、弥五郎も山仕事や木流しに従事していたと伝わっている。

同じく白鷹町十王じゅうおう地区の五十峯いずみね家は、代々山守やまもり役を続けてきた家系で、裏山一帯が上杉領地になっている。自宅の松の根元にある「草木供養塔」(1891、明治24年)を建立したのは五十峯惣吉いずみねそうきち伐木ばつぼくを生業にしていた惣吉はある日、悪い病にかかってしまった。生死の境を彷徨さまよう惣吉が見たのは、走馬灯のように自分の周囲を巡る木々。これまで自分が切り倒してきた全ての樹木の姿にさいなまれ、木々の霊を鎮めるよう草木供養塔の建立を願った。親が建碑を聞き入れると、間もなく惣吉は事切れたという。

初期の草木塔に刻まれる「草木国土悉皆成仏そうもくこくどしっかいじょうぶつ」という願文は、『涅槃経ねはんぎょう』の「一切衆生悉有仏性いっさいしゅじょうしつうほとけしょう」に由来した日本仏教の思想で、「草木や国土のように心をもたないものさえも、仏性をもっているので、ことごとく皆仏になる」と言う意味である。人と山川草木は同じ宇宙に在り、自然界で深く結び付いている。山の恵みをいただく人の、感謝や願いや畏敬や悼む心、人のさまざまな念は草木塔になり、自然の中に溶けているのだ。地球環境や自然保護の精神が見直されている現在、自然との共生に対する共感や認識を「草木塔」から捉え直してみたい。